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永遠の絆、メビウス・ 最終章「鈴の音」①

メビウス思い出記
03 /19 2016
その夜、妻も一緒に彼女のために手を合わせてくれた。妻の気持ちも嬉しかった。

翌日、彼女の葬儀は、ホスピタルの教会室で行われた。
不動産会社の社長や職場同僚、当時の私の職場からも交流のあった人も来てくれた。
社長「ありがとう。最後まで付いててくれてたらしいなあ。、彼女も幸せもんだよ。」

 その時、社長が、「これは、これは。ありがとうございます」と言いながら、葬儀室に中年男性と女性を招きいれた。
「お父さんとお母さんだよ。」
「エッ?」
その時の葬儀での両親の態度には、みんな愕然とした。あまりの態度に・・・
 
 今思えば、この時のことがなければ、彼女のこともただの人生の思い出として残ったかのもしれない。
「社長、なんで探し出したりしたんですか?」
「イヤー、まずかったかなー。それにしても・・・」
社長も何やら後悔が残ったようであった。

 ― 葬儀が終わって -

「きり姉のことありがとう。見舞ったとき、いつも言ってたんよ。イケちゃんは・・・つかみどこがないけど、ほんとの友達かもしれん!幸せだよって」

「何だそれ。ミユキちゃんも、よくしてくれてたもんな。かわいい妹みたいなもんだって( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。」
「なんでおまえ、泣くと鼻水垂れるんのよ??」
「それよりさあ、黒たまがいなくなったんよ・・・」
「そうか・・・、猫だからな、ご主人似でどこかふらっといったんじゃないか?それよりさあ、あいつ島原でのこと、話したことないか?」
「詳しくは知らないけどね。生まれは北九州だけど、ちょこっと島原のことは聞いたことあるけど、きり姉、謎多かったし・・・どうかした?」
「そうか。ミユキも知らないか。・・・・」

ー 鈴 の 音 ー
 その頃、住宅会社の営業で前任者が退職することで、一人のお客さんを引き継いだ。ある眼科病院の女医でした。けっこう気さくな先生です。何度か自宅へ行ったりするうち、お互い笑っていろんなこと話せるくらいになっていました。
 
 ある日、一度先生の働く病院を覗いてみようと思い、診察の終わるころに訪ねた。診察室の中へ入り、色々と建築計画の話をしている時・・・

「自宅の連絡先も教えてといてくださいよ。年賀状、書こうかしら( ̄∇ ̄;)ホッホッホッ」?」

名刺入れの中の名刺が切れていて、財布にあった1枚をとろうとした時だ。財布の中の指輪をフロアカーペットに落としてしまった。診察室にあった流しで手を洗っていた先生、

「鈴、落っことしましたよ!!」
「やだな先生!鈴じゃないですよ。指輪ですよ、指輪」
「あら、ほんと。鈴の音がしたから、てっきり・・・。でもメビウスリングね・・・・。それにしてもかわいいリングね。」

 落とした指輪を拾おうとした時、ハッとした。いなくなった彼女の黒たまには鈴がついてた。・・・
『アンタ、目を大切にして・・・』彼女の言葉を思い出した時、私は全身が震えたことを今も覚えている。

「先生、目の検査ってしたほうがいいですか?」

「そりゃあ、したほうがいいですよ。目って自覚がないところだから、何かおきてからする人がほとんどなんですけどね。」
「眼圧より眼底検査のほうが詳細がわかるからおすすめですけどね。どうかしたんしたの?やってみますか?( ̄∇ ̄;)ホッホッホッ」
「今から・・・、今から眼底検査やってもらえますか?」
「今から?この検査すると丸1日ぐらいぼやけて何もみえませんよ!それでも?」

 私の普通ではない様子から「ちょっと、検査の準備するからまっててね」
「はい。お願いします。」
 検査の後、画像写真を見ながらじっと先生は考え込んでた。真剣な顔をして両目を触りだした。
 先生、私の両肩をグッと掴んだまま、
「真面目に答えてね・・・・。あなた目は見えてるの?」
「エッ、視力は悪いですけど、見えてますよ。どうかしたんですか?」
先生は、机の上に肘をつき、両手で顔を塞ぎながらずっと考え込んでいました。

「いい、よく聞いてね。あなた、間違いなく必ず両目とも失明するわ!今見えてるのが不思議なくらいなのよ。」

私は先生が何をいってるのか、わからなかった。
「今、急に起きてもおかしくないのよ!」
「あなたの網膜は穴が数えられないくらいあって、体液が入り込んで裂孔も起こしてる。激しい剥がれもあって、こんな状態みたことがありません。普通なら目が失明している状態なのよ。見えてるほうが奇跡なのよ」

「なんでそんなことに?」
私の結果写真を使いながら説明をはじめた。
「あなたの網膜は生まれつき、毛細血管が全くないの。健康な目の状態なら、血管を通して栄養とかが行き渡って網膜が生きた働きをしていくんだけど、あなたには全くないから網膜の働きが衰えているのよ。」

「どうしたらいいんですか?」
「手術するしかないですね。でも完全に復元できるか?・・・難しいですよ。」

「でも、しょせん手術しても血管まで戻らないんでしょう?」

投げやりな言い方をしたからだろうか?
先生は今にも泣き出しそうな真っ赤な目をしながら、両手で私の顔を這わせながら話す顔に、あの彼女の涙で『体を大切にして・・・』と伝えていた姿が重なってみえた。

俺の肩をゆさぶりながら「あなた、このまま光を失うことになりますよ!!悲しむ人が何人もいるのよ。わかってるの!!私たちも精一杯するから、これは賭けと一緒なのよ!だから勇気をだしてよ!お願い・・・、お願いだから!」

先生が泣いていた。涙と検査後のぼやけた目で俺は天井を見上げていた。

「先生ありがとう。やってみますよ・・・」
先生は眼科医でもあるご主人に連絡し、今の状況を話して、緊急の手術の準備をはじめたが、専門の医師の都合で明朝から行われることになった。

「目が不自由でしょ。帰りは私が家まで送ってあげるわ。」
「いいですよ。なんとか歩いて帰れますよ・・・」
「送らせてって言ってるでしょう!!にぶい人ね!」
「そんなに怒らなくても・・・」
「ごめんなさい・・・。興奮しちゃって」
「でも・・・なんで検査を受けようと思ったの?」

私は車の助手席で彼女のことを話はじめた。

「そんなことがあったの?・・・・(* ̄- ̄)ふ~ん」

家に帰り着いた私は家内に目のことを話し始めた。家内も「どうしたらいいの?」ただ泣いていた。


  ↑ 太宰府観世音寺

―永遠の絆、メビウス― 最終章「鈴の音」②へ続く

太宰府の史跡 (岩屋山の戦い編)

わが街備忘録
03 /12 2016
岩屋山の戦いがどのような戦であったのか考察してみたいと思います。
●岩屋山の戦い【1586年7月、筑前(現在の福岡県太宰府市四王寺山)にて】
まずは、時代背景をみると、
〈時代背景〉

織田信長を本能寺の変で倒した明智光秀を羽柴秀吉が討ち、また織田家臣のなかで大きな力をもつ柴田勝家を倒し、天正13年(1585年)は、秀吉は7月に関白宣下を受けました。大きな力を持ち始めた徳川家康に融和策として政略婚儀を利用し、家康を臣下として諸大名の前で礼をとらせます。
この頃は、まだ関東の北条氏の力があり、奥州もまだ群雄割拠の時代です。
この頃、九州では龍造寺氏を下した、鬼島津呼ばれる島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年(1585年)、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが、九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。


〈九州の動き〉
天正12年(1584年)、沖田畷の戦い龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、大黒柱を失った龍造寺氏を降らせたことで、その勢いを急速に伸長した。この年、龍造寺氏からの離反や大友氏への対立方針を採るなどの様々な思惑から肥後隈部親永親泰父子、筑前秋月種実筑後筑紫広門といった小勢力らが、服属や和睦といった形で島津氏との関係を強化していった。翌年には肥後阿蘇惟光を降した島津氏にとって、九州全土掌握の大望を阻む勢力は大友氏のみになっていた。

島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長伊集院忠棟を大将とする総勢40000余人が出陣した。筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主の紹運の長子は少数精鋭の部隊を執らせて名を上げ始め、のちに西国一の武神と畏れられた立花宗茂といった大友氏の配下だけであった。

<島津勢の布陣>

正面が四王寺山(右山頂に岩屋山城跡が見える)、ここ菅原道真公ゆかりの太宰府政庁跡には約20000の兵、万が一の左からの攻撃に備える。
立花山からの奇襲の恐れての布陣と考えられます。この戦、島津忠長も時をかければ、秀吉方の援軍がつけば、状況が不利になると読んでの短期決着を望んでいたはずです。





飛鳥時代、天智天皇ゆかりの観世音寺には、約10000の兵。
後方朱雀、般若寺にも5000の部隊を布陣したといわれている。島津本陣は後方天拝山に陣を敷いたといわれている。
部隊数は布陣から割り出した推測とこの太宰府の地形から、読んでみました。





島津勢のこの布陣は山岳戦で籠城戦に備えて用いられる衡軛(こうやく)という布陣の一つです。山岳籠城には必ず水の手を絶つという戦法がとられます。実は、四王寺山の水の手は宝満山側水瓶山にあり、原山無量寺跡は、岩屋山城と高橋統増(紹運の次男)宝満山城の中間地点にあり、水の手を絶つためと宝満山の孤立と将兵の気勢をそぐために、原山無量寺に火をかけ、全焼させた。というのが私の見方です。

現代のように情報入手の速い時代ならいざしらず、戦国時代には、数少ない情報から大将を含めた本隊同士の駆け引きから戦が行われてきました。




これは、岩屋山城からみた太宰府政庁跡、高橋紹運はここから何を思ったのだろうか?

おそらく、秀吉方の援軍もいつつくかわからない、息子の立花宗茂からも立花山までの撤退を申し出もあるが、それでは宝満山城の次男や女達も孤立する。
あくまでも岩屋山城での徹底抗戦は、時を稼げればそれでよし、後のことはすべて宗茂と統増に未来を託した父として、そして何より男としての本音の愛情からなのだと思います。それでなければ、こうまで多勢に無勢のなか、763名の兵が一糸乱れず、戦えるはずがありません。

この高橋紹運のすぐれた統率力は言い換えれば、高橋紹運の人柄と一兵卒にいたるまでの信頼関係の堅さでしょう。



ー激突経過ー
岩屋城には763名の城兵が籠る。
1586年(天正14年)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行う。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆が多く戦意にも欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。

籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。

落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。

一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。

1587年、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。帰途太宰府の観世音寺において、後の山王の社に統虎(のちの立花宗茂)を呼び、父紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそ、この乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を惜しんだと伝えられる。

原八坊跡とその歴史、私のかかわり(水害)・・・③

わが街備忘録
03 /07 2016
 原八坊跡とその歴史、私のかかわり・・・① はこちら
 
 ●原八坊跡とその歴史、私のかかわり(水害)・・・③


平成15年7月19日(土)05時43分ごろ斜面の崩壊により土石流発生。死亡者1名。
 土石流災害発生地点は,太宰府天満宮から北西へ約500mの地点で県民の森がある四王寺山の南東側斜面から水瓶山にかけて発生しました。四王寺山の南東側では標高100m~150m付近より下方に傾斜が緩く扇状地的な地形が拡がり,上方は標高350m程度の尾根までの斜面となっています。土石流は、九州自然歩道のある標高340mの尾根部南東斜面で発生した表層崩壊土砂が沢を一気に流下し,標高70m付近の住宅地まで達しています。
付近でも、2戸が全壊、(1戸は住人はその時不在、1戸は住居者が死亡)
、我が家は幸いなことに敷地の周りのガードレールに土石が完全に堰き止められ、床下浸水のみで怪我人もなく助かりました。

ここは昔から、度重なる水害にあっており、そのため現在では砂防ダムが4つ作られました。
ある日、下に住む男性のご老人がやってきて「大丈夫でしたか?」「ここは昔から多くてね。」「あんた、ほんとに運がよかったね」

私はこの水害で、以前仕事で島原をまわっていた時、あの雲仙普賢岳の火砕流、土石流に被害にあい、信じられないような九死に一生を得たことを思い出しました。そのうち当時のことを紹介できることもあると思います。

私は砂防ダム事業計画の説明会に参加して1つの質問を現場担当者のかたにしました。

「4つの砂防ダムを土石流が乗り越えたらどうなりますか?」と・・・
現場担当者のかたは、しばらくは言葉がなかったのですが、「ありえない話ではないのですが、もしそうなったら太宰府市は壊滅です。それだけでなく筑紫野市、大野城市、春日市も甚大な被害にあうことになります。そうならないことを祈るばかりです」と。

自然には、人間の生活など一瞬のうちに吹き飛ばす恐ろしい力をもっています。いつも生かされていることに、我々は感謝して、精一杯生きていきたいものです。




原山無量寺記念碑も移設されました。









←左は第3番目の砂防ダム












第3番目の砂防ダムから太宰府市内を望む















→九州自然歩道、四王寺山山頂への登山道入り口です。この水害のあと、登山道も様変わりし、この先、ロープを使って、よじ登るところがあります。

充分、気をつけて登ってください。


















次回は、この太宰府で戦国時代末期にあった岩屋山の戦いの視点から太宰府の史跡(および戦国の花と謳われた高橋紹運)を紹介したいと思います。

原八坊跡とその歴史、私のかかわり・・・②

わが街備忘録
03 /04 2016

私の家は39年前、私が高校3年生の時に、今の太宰府のこの地にに引っ越してきたのですが、父が自営で設備業をしていて、資材置き場などにはいつも難儀していて、今の家を見つけたのですが、当時はこの近所も家が少なく、全く後ろを山に控え、横は林、まわりは畑といった感じでした。
愕いたのは、買おうとしていた今の家なのですが、更地には壁などなく、古い木造の2階建ての家と大きな倉庫があるくらいでした。
家の中をみて、さらに驚愕です。家の中は蜘蛛の巣だらけ、ムカデが這い・・・。壁は剥がれ、風呂の床も割れてるなど、まあ言葉がありませんでした。両親もさすがに考えこんでしまい、私に「おい、どうするや?」と私に決断を迫ってきました。家が経済的にも苦しかった頃で「いいんじゃない、ここで。修理は僕がするから、親父も手伝ってよ」
とこれで決めました。家は時間はかかりましたが、すべて父と二人で修復しました。



引っ越ししてきて、更にびっくりさせられたことは、隣が墓地であったことです。左は現在の状態ですが、当時は墓石も全く見えないくらい茂っていました。

引っ越してすぐ、私はなんだろうと入り込んでいくと多くの墓石が倒れていて、なぜか古い木箱の中に無数のスズメバチがいたのを覚えています。
親父に話すと、自治会から市に話が行き、太宰府天満宮のかたもきて、早速修復となり、現在にいたっています。天現山安楽寺とかいてある石柱は発見後、建てられたもので、太宰府天満宮の正式名称は天現山安楽寺といいます。ここは、天原山安樂寺(太宰府天満宮)の社家、味酒安行の子孫「検校坊」の墓所。検校坊は太宰府天満宮を創始した味酒(うまさか、現在ではみさけとよぶ)安行の次男を始祖とする宮司(みやじ)で、本殿の宿直を勤め、更衣祭などの役職を担っています。


先代の味酒安信さんといったっけ?とご一緒にお墓の清掃などもさせていただきました。
その時、教えていただいたのは、昔この一帯は無量寺という天台宗の寺があり、円珍の弟子8人が建てたこと、岩屋山の戦いで焼かれ、その後お弟子さんたちは安楽寺に出仕するようになったこと、また神仏分離になった影響から放置状態になったと聞いています。

この墓石の中にかすかに高橋紹運公とよめる石碑があり、この地では紹運公といえば、この地の慕われている傑物の武将であることを教えていただきました。味酒さんから穏やかな笑顔で「ほんとにありがとうございました。これからも大切にしてください。」今でもそのときの笑顔が、忘れることができません。

↓そして、今無量寺の本堂跡が発掘中です。

↑石の階段跡がはっきりとわかります。


↑本堂基礎部分


↑発掘現場とメビウス

次回記事では、原八坊と水害に関して紹介したいと思います。

原八坊跡とその歴史、私のかかわり・・・①

わが街備忘録
03 /01 2016
●私の住むところは、太宰府市連歌屋・三条から見える水瓶山ふもとにあり、現在は宅地化している一帯にあるのですが、かつは原山無量寺という中世の寺院があった跡地に住んでいます。その大半は宅地開発により消滅してしまいましたが、その一部は原遺跡として原山無量寺本堂跡が去年の秋口から発掘調査中です。

●原山無量寺は、寺伝によると天台宗の円珍が唐に渡る前に、普賢菩薩を刻み、天安2年(858年)に、その八人の弟子たちがここに寺を創建したことに始まるとされています。その八坊とは
華台坊、六度寺、安祥寺、十境坊、真寂坊、宝寿坊、寂門坊、明星坊(明星坊は途中で廃絶し、慶長年間に常修)坊が加わります。)をいい、本堂や中堂の他、多くのお堂が建ち並んでいたようです。

福岡市博物館が所蔵の原山古図に、往時の壮麗な伽藍群が描かれています。

また、建武3年(1336年)、戦いに敗れ、九州まで落ち延びてきた足利尊氏が多々良浜(現在福岡市東区にある流通センター付近が合戦場とも言われている)で菊池勢を破って、この原山の一坊に入ったこともあり、その後、一時は南朝方の懐良親王の征西府が置かれたこともあったと伝えられています。しかし、天正14年(1587年)、秀吉の九州平定前に九州制圧にでた島津勢と大友宗麟家臣の高橋紹運との岩屋城の壮烈な戦いにより、全て灰燼に帰し、江戸時代、原八坊の僧侶たちは安楽寺(現在の太宰府天満宮)に奉仕する社僧になったと伝えられています。

さて、古くからの歴史を持つ原八坊ですが、発掘調査では、古代(9~10世紀)の竪穴式石室の墳墓などのほか、13~14世紀の坊跡と考えられる掘立柱建物、石垣、道路状遺構なども出土しています。

寺伝では9~16世紀まで継続したことが伝えられていますが、発掘調査ではその確証は未だ得られいなかったのですが、先日、推測された本堂跡から、石の階段および本堂基礎と思われる部分がみつかりました。発掘現場で話を伺ったのですが、太宰府市教育委員会も今回の調査で本堂跡が発見され、何年かかってでもこの一帯の調査は実施していくそうです。歴史好きの私と家族もこの発掘調査と今後の経過は大変楽しみにしています。

(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』より)
(太宰府市「太宰府いしぶみ散歩」『太宰府市史 文芸資料編』より)

次回の記事では、私が39年前に天原山安楽寺太宰府天満宮 検校坊墓所を発見したときの状態を紹介したいと思います。

のぶさん

何を思ったか、55歳からバイク乗りはじめた、さまよえる爺でございます。人生楽しめればそれでよろしゅうございます♪