おはようございます。四王寺山山頂で休憩を終え、下りながら高橋紹運公の墓を目指します。いざ出陣!
今度のウォーキング作業用BGMは必殺シリーズテーマ曲の中で、最も人気のあるといわれる『暗闘者』です。
今回記事もYou Tubeの再生ボタンを開始してBGMを流しながら、閲覧してみてください。ウォーキングの雰囲気がちょっぴり感じられるかも?(笑)ではどうぞ~▷
四王寺山山頂、焼米ヶ原。
これが、下りまで31カーブあります。暴走行為を抑えるため、ラインがずっと・・
また、段差箇所が結構あります。この道が、私のライディング練習コースです。
原付バイクの時代から何度走っているかわかりません。
31番カーブ付近。周りを見ていると段差でガクンときますよ。
岩屋城址へつきました~。
ここが、その岩屋城址です。石碑があるくらい。
この地で、関白秀吉は、九州平定をかけて南下。そして先んじて薩摩島津が九州平定をかけて、島津軍勢5万と大友宗麟配下の1000にも満たない勇将高橋紹雲の軍勢がぶつかりあうことになった。皆さんは想像つきますか?
壮烈な戦いがあったことを彷彿させる石碑。
●少し、高橋紹運公の胸中を私なりに賢察してみました。
仕える大友宗麟は関白秀吉に恭順の意をすでに表している。
後方には勇将の頭角を現し始めていた長男宗茂が布陣している。左宝満山にはには次男統増が布陣している。女・子供の多い軍勢だ。
敵将島津忠長からは降伏せよとの勧告。秀吉は応援の軍勢がすでに出発している。宗茂の陣へ引けば、統増の陣が孤立させることになる。秀吉軍を待ち、とりかえせば、主君への義は立つ。だがそれでは主君の秀吉からの評価を下げることになってしまう。それくらいのことは、紹運のほどの優れた武将ならば考え付いたはずだ。
彼は死中に克を求めたのだ。息子二人にすべてを託して・・・
高橋紹運は生涯疱瘡を患って容姿も変貌していた妻を愛していたといわれています。
だが彼は、妻のその心を愛し、生涯、妻は一人しかめとっていません。
家族思いであり、義を大切にした彼の求めた道はただ一つ。彼もまた生きるためにかけたのだ。愛する家族を守るため、息子たちよ、生き延びよと・・・。
だからこそ多勢に無勢の中、愛する者たちのためならと最後まで、命をかけてまで闘うことができたのでしょう。
敵将島津忠長も高橋紹運が戦死したあと、号泣し続けたといわれています。
彼は、床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに地に伏し、涙を流し手を合わせたと伝わっている。
その心を察することができたからこそ、九州平定を終えた秀吉は観世音寺にて、宗茂を呼び、岩屋城をとりかえした宗茂の眼前で涙を流しながら、『紹運こそ、この乱世、下剋上の世にあって、誠の男、高橋紹運こそ乱世に咲かせた華よ!、戦国の華よ!・・・』と涙を流したといわれています。
ここから、太宰府市内、筑紫野市、大野城市、春日市、福岡市も眺望できる。
ここ岩屋城跡は眺めは最高に素晴らしいのだが、日陰がありません。今日はけっこう風が強いほうでした。涼しくて、気分よく自撮り。ぽちっとな♪
高橋紹運公の墓に行ってみましょう!
狭い石段を降りていくと・・
【高橋紹運と家来衆の墓】
毎年7月27日は高橋紹運とその家来衆の法要が時代を超えて、今もなお、執り行われています。
九州遊歩道終わり、太宰府観世音寺近く
ひゃあ~。助かった。丁度水筒の水もアイスコーヒーも切れていた時に、自動販売機発見!感謝、感謝いただきま~す。
帰路は太宰府観世音付近から崇福寺別院横を抜けて帰る。この道は私有地ですから、ご注意を~。車もバイクも通れませんよ。
この猛暑の中、午後1時50分に帰宅しました。まっすぐシャワーに直行。
総歩行距離、11,658歩、消費カロリー256Kcalでした。
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