◆私の家は39年前、私が高校3年生の時に、今の太宰府のこの地にに引っ越してきたのですが、当時はこの近所も家が少なく、後ろを山に控え、横は林、まわりは畑といった感じでした。
愕いたのは、買おうとしていた今の家なのですが、更地には壁などなく、古い木造の2階建ての家と大きな倉庫があるくらいでした。
家の中をみて、さらに驚愕です。家の中は蜘蛛の巣だらけ、ムカデが這い・・・。壁は剥がれ、風呂の床も割れてるなど、まあ言葉がありませんでした。両親もさすがに考えこんでしまい、私に「おい、どうするや?」と私に決断を迫ってきました。家が経済的にも苦しかった頃で「いいんじゃない、ここで。修理は僕がするから、親父も手伝ってよ」
とこれで決めました。家は時間はかかりましたが、すべて父と二人で修復しました。
引っ越してすぐ、私はなんだろうと入り込んでいくと多くの墓石が倒れていて、なぜか古い木箱の中に無数のスズメバチがいたのを覚えています。
父に話すと、自治会から市に話が行き、太宰府天満宮のかたもきて、早速修復となり、現在にいたっています。天現山安楽寺とかいてある石柱は発見後、建てられたもので、太宰府天満宮の正式名称は天現山安楽寺といいます。ここは、天原山安樂寺(太宰府天満宮)の社家、味酒安行の子孫「検校坊」の墓所。検校坊は太宰府天満宮を創始した味酒(うまさか、現在ではみさけとよぶ)安行の次男を始祖とする宮司(みやじ)で、本殿の宿直を勤め、更衣祭などの役職を担っています。
その時、教えていただいたのは、昔この一帯は無量寺という天台宗の寺があり、円珍の弟子8人が建てたこと、岩屋山の戦いで焼かれ、その後お弟子さんたちは安楽寺に出仕するようになったこと、また神仏分離になった影響から放置状態になったと聞いています。
この墓石の中にかすかに高橋紹運公とよめる石碑があり、この地では紹運公といえば、この地の慕われている傑物の武将であることを教えていただきました。味酒さんから穏やかな笑顔で「ほんとにありがとうございました。これからも大切にしてください。」今でもそのときの笑顔が、忘れることができません。
↓そして、今無量寺の本堂跡が発掘中です。
↑発掘現場とわたしのバイク
次回記事では、原八坊と水害に関して紹介したいと思います。
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