岩屋山の戦いがどのような戦であったのか考察してみたいと思います。
●岩屋山の戦い【1586年7月、筑前(現在の福岡県太宰府市四王寺山)にて】
まずは、時代背景をみると、
〈時代背景〉
織田信長を本能寺の変で倒した明智光秀を羽柴秀吉が討ち、また織田家臣のなかで大きな力をもつ柴田勝家を倒し、天正13年(1585年)は、秀吉は7月に関白宣下を受けました。大きな力を持ち始めた徳川家康に融和策として政略婚儀を利用し、家康を臣下として諸大名の前で礼をとらせます。
この頃は、まだ関東の北条氏の力があり、奥州もまだ群雄割拠の時代です。
この頃、九州では龍造寺氏を下した、鬼島津呼ばれる島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年(1585年)、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが、九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。
〈九州の動き〉
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、大黒柱を失った龍造寺氏を降らせたことで、その勢いを急速に伸長した。この年、龍造寺氏からの離反や大友氏への対立方針を採るなどの様々な思惑から肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、筑後の筑紫広門といった小勢力らが、服属や和睦といった形で島津氏との関係を強化していった。翌年には肥後の阿蘇惟光を降した島津氏にとって、九州全土掌握の大望を阻む勢力は大友氏のみになっていた。
島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢40000余人が出陣した。筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主の紹運の長子は少数精鋭の部隊を執らせて名を上げ始め、のちに西国一の武神と畏れられた立花宗茂といった大友氏の配下だけであった。
<島津勢の布陣>
正面が四王寺山(右山頂に岩屋山城跡が見える)、ここ菅原道真公ゆかりの太宰府政庁跡には約20000の兵、万が一の左からの攻撃に備える。
立花山からの奇襲の恐れての布陣と考えられます。この戦、島津忠長も時をかければ、秀吉方の援軍がつけば、状況が不利になると読んでの短期決着を望んでいたはずです。
部隊数は布陣から割り出した推測とこの太宰府の地形から、読んでみました。
島津勢のこの布陣は山岳戦で籠城戦に備えて用いられる衡軛(こうやく)という布陣の一つです。山岳籠城には必ず水の手を絶つという戦法がとられます。実は、四王寺山の水の手は宝満山側水瓶山にあり、原山無量寺跡は、岩屋山城と高橋統増(紹運の次男)宝満山城の中間地点にあり、水の手を絶つためと宝満山の孤立と将兵の気勢をそぐために、原山無量寺に火をかけ、全焼させた。というのが私の見方です。
現代のように情報入手の速い時代ならいざしらず、戦国時代には、数少ない情報から大将を含めた本隊同士の駆け引きから戦が行われてきました。
これは、岩屋山城からみた太宰府政庁跡、高橋紹運はここから何を思ったのだろうか?
おそらく、秀吉方の援軍もいつつくかわからない、息子の立花宗茂からも立花山までの撤退を申し出もあるが、それでは宝満山城の次男や女達も孤立する。
あくまでも岩屋山城での徹底抗戦は、時を稼げればそれでよし、後のことはすべて宗茂と統増に未来を託した父として、そして何より男としての本音の愛情からなのだと思います。それでなければ、こうまで多勢に無勢のなか、763名の兵が一糸乱れず、戦えるはずがありません。
この高橋紹運のすぐれた統率力は言い換えれば、高橋紹運の人柄と一兵卒にいたるまでの信頼関係の堅さでしょう。
ー激突経過ー
岩屋城には763名の城兵が籠る。
岩屋城には763名の城兵が籠る。
1586年(天正14年)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行う。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆が多く戦意にも欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。
籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。
落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。
一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。
1587年、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。帰途太宰府の観世音寺において、後の山王の社に統虎(のちの立花宗茂)を呼び、父紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそ、この乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を惜しんだと伝えられる。
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