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振り向けば・・治虫がいる!!

※本ブログでは記事中に広告情報を含みます

🔶アニメージュとジブリ展の鑑賞から続きのような考察記事となります。記事タイトルは『振り向けば・・治虫がいる!!』となっていますが、そうです。今回のアニメに関する考察記事は、『手塚治虫さん』です。

私は大学時代、アニメ研究会(正式名称:アニ漫交差点渋滞部整理事業課)という何やら妖しいサークル名の中で活動をしていたのですが、入った時に、「手塚治虫先生の漫画読んだことあると思いますけど、どう思う?」とすごい漠然とした質問をされて「よくわからないけど、漫画書いているときにどんな表情して描いているのか、実際に見てみたい!」と答えたことは、今でもよく覚えています。この会では、アニメ番組だけに限らず、漫画でも、ヒストリーでも何でも激論あり、描画、作画あり~の中身でした。(1995年に金欠菌という病魔に襲われ、自主解体したそうな(笑))
日本のアニメや漫画って、昔も今も、観れば観るほど、ほんとにこの手塚治虫さんにぶち当たってしまいます。

今回は、この手塚治虫先生のどんなところが凄いのか?神がかりなその凄さはどこからきたのか?というところを考察し、先生の凄いと評価されているところをわかりやすく列挙してみました。ご存じの方も多いと思いますが悪しからずご容赦を

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①戦争を体験して、九死に一生を得ていること。
手塚先生は昭和3年11月3日生まれで、1941年に大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学しています。この頃には日本全国、軍事色が強まっていった時期で、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られたりしています。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆しながら、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーション図鑑を自作しています。1944年夏には、体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられます。学校に行く代わりに軍需工場に駆り出されたりもしています。

1945年3月、戦時中の修業年限短縮で北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたので、不合格となります。戦時中の勤労奉仕で監視哨をしていた時、大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも、九死に一生を得ます。この空襲が、先生の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれています。この体験以降、工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになりました。

②日本で初めての30分のテレビアニメを作ったこと(鉄腕アトムの誕生)

日本では多くのアニメ作品が毎週30分で放送されていますが、その元祖は、手塚治虫の『鉄腕アトム』です。日本ではこれより前から映画で長編アニメ自体は、作られていました。テレビアニメ自体も色々ありましたが、30分もあるテレビアニメを毎週放送したのは鉄腕アトムが最初です
毎週放送しようとすると、それまでの日本アニメのようななめらかにキャラクターが動く作品は厳しいため、リミテッドアニメーションというセル画を減らして、必要最低限のセル枚数で動いているように見せる手法を採用したのも手塚治虫さんです。まさに手塚治虫さんのおかげで、今のアニメ制作の基礎がつくられたといっても過言ではありません

しかし、テレビアニメーションの世界は、何といってもスポンサー企業の影響をもろ受ける世界です。原作者がよし!(^^♪と思ってもスポンサーが✖と言えば、どうにもならない世界なのです。制作側が頑張って、視聴率が伸びても、スポンサー側に成果が還元されなければ打ち切りになってしまいます。またスポンサー側企業の資金が枯渇したり倒産の影響を受けて放送打ち切りになった作品もかなりあります。この現実には、手塚先生も相当悩まされたはずです。実際、手塚先生の作品でも『ドン・ドラキュラ』という作品はたったの8話で打ち切りになっています。
テレビアニメの世界で制作者側、視聴者、スポンサーが揃って名作の太鼓判を押せる作品というのはそんなにあるものではありません。それでも厳しい世界で、手塚治虫さんは納得のいく作品をめざしてテレビアニメ界で闘っていました。



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👆日本のテレビアニメ昭和徒然史~アトム登場 ご参考までにリンクしています。

③漫画の基礎を造り、映画的な手法をとりいれて日本の漫画を激しく変えたこと。

日本の漫画は、手塚治虫以前だと『のらくろ』などに代表されるように、平面的なものが多く、コマ割りもとてもシンプルな均一なものがほとんどでした。ところが、手塚先生はコマ割りを変えて、さらにコマの中のキャラクター構図を立体的にして描写しました。これによって日本の漫画はとても迫力のある物になり、より面白味が増したのです。現在の漫画も、手塚治虫さんがいなければ成り立っていません。

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👆『どろろ』コミック文庫より。

④ ほとんど寝ずに漫画を描いていたこと

漫画家と言えば、徹夜してひたすら漫画を描き、締め切りから逃げる光景がイメージされますが、手塚治虫さんもまたそんな漫画家人生を送っていました。ほとんど寝ずに漫画を描いていて、寝ていたのはせいぜい3~4時間だったと言われています。しかし、漫画の手を抜くことはなく、とにかくクオリティを高めることに意欲がある人だったため、締め切り直前になってから全部描き直してしまうなど、編集者はなかなか心安まらない生活を送っていたようです。

⑤レジェンド扱いになってからも、時代に合わせて新しい作品を作ったこと

手塚治虫さんは、漫画、アニメ界で一世を風靡しましたが、その後色々な漫画家が登場し、時代も流れていくことで、過去の伝説の人として扱われてしまいます。しかしそこでそのまま忘れられることを手塚治虫さんは良しとしませんでした。時代の流れに合わせて、様々な作品を作り上げていきました。
例えば、プライム・ローズは、1980年代に作られましたが24時間テレビでアニメ化)プライムローズという作品は、当時人気があった美少女系のアニメに影響を受け、主人公がビキニのような鎧を着けた幼めの少女でした。

タイムスリップ10000年プライム・ローズ
👆アニメ『タイムスリップ10000年プライムローズ』(1983年8月・第6回24時間テレビ枠内・特番)

⑥ 病に伏せてもなお漫画を普通に連載していたこと

手塚治虫さんは胃ガンで亡くなっていますが、病に伏せている状況でもなんと漫画を描いていました。しかも普通に連載をしていたと言うから驚きです。遺作は『ネオ・ファウスト』、『ルードヴィッヒ・B』、『グリンゴ』といった作品で、これらが病気のさなかに連載されていました。残念ながらこれらの未完となってしまいましたが、死の直前まで漫画に人生をかけていたのは本当にすごいことです。

⑦ 手がけたジャンルがありえないほど多いこと
手塚治虫さんは、様々なジャンルの作品を手がけています。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』『どろろ』など、数え切れないほどに漫画を描いています。
失礼な言い方ですが、普通の漫画家は、数もですがここまで幅広いテーマのジャンルの作品を描けないのではないかと思います。恋愛ものが得意な漫画家はそれを中心に描きますし、バトルものの作家ならそのジャンルのものが多くなりがちなのです。手塚治虫さんは、古今東西のあらゆるジャンルで漫画を描いています。

⑧ 漫画、アニメ活動をしながら、実は医師の免許をとったこと

1945年7月に、手塚治虫さんは大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、合格し入学を許可されています。医学専門部は、戦争の長期化にともなって、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校でした。従って旧制中学校からの入学が可能だったのです。しかし、大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されています。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚治虫さんは医業と漫画との掛け持ちは諦めざるをえなくなりました。教授からも医者になるよりも漫画家になることをすすめられ、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決めます。しかし、学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業しています。

さらにここが凄いところなのですが、大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、そして1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録もしています。このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べています。なお医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格しているのです。

私は、大学を卒業し、医療業界に関連する医薬品の業務を通して、多くの医師もみてきましたし、その現場仕事のサポートもしてきました。医師国家試験は、本当に大きな志がなければ、受けようとは思わないし、軽く勉強して合格できるような試験ではありません。手塚治虫さんの自伝の上記のこの言葉は、本心・本音であろうと思います。ただ、ものごころついた頃から漫画・アニメを描き続け、単純で純粋な話、子供のころの心のままに、後先のことなど考えないで好きで突っ走ってきた人生であったろうと思います。その漫画やアニメ創作に注ぐ情熱、集中力、そして行動力といい、漫画家の域を超えていたのではないかと思います。

雑誌のアニメージュだって、ジブリだって、ヤマトも、ガンダムもそのルーツをたどれば、柔和な笑顔の表情に隠された一人の漫画家手塚治虫さんなのです。その秘めた情熱に最高の敬礼をしたいです!!

失敗してもいいから、何事にも一生懸命立ち向かってみよう。そして時には振り返ってみましょう。そこにはきっと笑いながら見守っている手塚さんの笑顔を感じるでしょう。

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👆手塚治虫 1989年2月9日(60歳没)若すぎる(-_-)

本記事は、当時のアニ研資料(アニ漫交差点渋滞ノートより)とウイキペディアより一部引用しています。


【おまけ・日本のアニメの歴史】

そもそも、日本で初めてのアニメ『芋川椋三玄関番之巻』が製作されたのは1917年(*_*)。米国は産業として成功しているが、日本では家内制手工業の域を出ず、立ち遅れているとも言っていい状況。

 最初にアニメ界に登場したのは、1948年設立の東映動画(現・東映アニメーション)です。「東洋のディズニー」と称して故・大川博社長が率いた同社は、1958年に満を持して世に送り出した日本初の劇場長編カラーアニメ『白蛇伝』がヒットします。この成功から、同社は毎年劇場アニメを製作することを決定し、日本のアニメ産業の一角ができました。1963年には宮崎駿氏も入社、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)や『空飛ぶゆうれい船』(1969年)など、後のスタジオジブリ作品のルーツとなるような歴史的な名作が公開されています。
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👆『白蛇伝』(東映動画)

そして、記念すべき第1作は、虫プロダクション制作の『鉄腕アトム』。当時の最優秀マンガ家の最優秀原作をアニメ化したこの作品は、先行する東映動画のアニメーターからは「動く紙芝居」と批評されたが、当時の子どもからすれば、好きなマンガが動くだけで大感激!!

 『鉄腕アトム』が大ヒットし、すぐに後発が現れます。これは日本という国の不思議さです。『鉄腕アトム』から遅れること10カ月、TBSで『鉄人28号』『エイトマン』、NET(現・テレビ朝日)で『狼少年ケン』などが次々と放映されていきます。いずれも子どもたちの心を強くとらえた。(どの作品も懐かしい~)

 にわかに生まれたアニメブームによって『鉄腕アトム』放映から2年後の1965年には14タイトルもの新作が登場、既存作品とあわせて20タイトルが放映される状況となり、制作不可能と思われていた国産テレビアニメ作品が毎日見られるようになったのです。わずか2年間で、民放キー局のゴールデンタイムをアニメが占拠するようになった現象からも分かるように、1963年から始まった『鉄腕アトム』をきっかけにアニメ産業はまさに大驀進です。

日本のアニメ産業が発展するきっかけとなった『鉄腕アトム』だが、その最大の功績はそれまで不可能だと思われていたテレビアニメを実現させたところにあります。
 
当時、最大規模の東映動画では90分の劇場長編アニメを作るのにのべ350人ものスタッフを動員していて、年1作の制作が限界。1960年代以降は年2作を目指し、監督や脚本家のほかに原画5人、第二原画10人、動画30人、トレース10~15人、彩色30人など合計90人ほどの作画スタッフによる制作ラインを2班作り、生産性を上げようと試みたがうまくいきません。90分の劇場アニメを制作するだけでも四苦八苦している中、ケタ違いの分数になるテレビアニメはあまりに非現実的でだったのです。
 
単純計算してみてください。30分番組(CMが入るから、実質20分強)を年50本制作すると考えると、年間トータルで1000分以上。東映動画の手法で制作するなら、単純計算で3000人以上の人員が必要となります。『鉄腕アトム』が始まる前の3年間のセルアニメ生産分数を見ると、1960年は208分、1961年は266分、1962年は308分と徐々に増えてはいるものの(山口且訓・渡辺泰著『日本アニメーション映画史』より)、年間1000分にもなるテレビアニメに対応できるとはとても思えません。
 テレビアニメでは最低でも4~5班の作画班を組んで分業する必要があるのですが、東映動画でさえ2班を確保するのが精一杯の状況で、その倍以上の作画スタッフを確保するなど物理的に不可能なのです。そもそも、日本中のアニメスタッフを全員集めても500人に満たないと言われていました。
 制作スタッフに加えて、製作費も大きな問題でした。東映動画の劇場アニメは約90分で予算は約6000万円、単純計算だと30分番組なら2000万円ということになります。それを年間50本作るなら、合計10億円。当時の物価は現在の5分の1ほどなので、実質50億円という巨額の予算になります。今のテレビアニメの年間制作費はキッズ・ファミリー向けの場合、年50本で5億~6億円であることを考えればとてつもない金額となります。
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👆『太陽の王子ホルスの大冒険』(東映動画)
もちろん劇場アニメのクオリティでテレビアニメを制作するのはありえませんが、当時は前例がないだけに制作費の基準をどこに設定するかが問題になったと思います。1本当たり250万円、あるいは500万円かかるという説もあったが、やってみないと分からないというのが現実だったのです。このような状況下でテレビアニメを制作すると聞けば、誰もが「正気の沙汰ではない」と思ったのは当然です。
 
ところが、その不可能の壁に挑戦した人間がいました。手塚治虫さんです。終戦の年に出会った松竹動画研究所の『桃太郎 海の神兵』でアニメ制作を決心し、『白蛇伝』でその思いをさらに強くした手塚さんは、東映動画から遅れること10年、1961年に手塚治虫プロダクション動画部を設立しました。手塚は東映動画の『西遊記』で原作・構成・演出を初めて経験、『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』でも脚本を手がけていたが、アニメ制作の実務キャリアは絶対的に不足しています。でも、これ以上待てないという思いが制作プロダクション設立に走らせたのです。

1962年には社名を虫プロダクションに改名、富士見台の自宅敷地内に150坪のスタジオを建設し、準備も整い、その第1作として制作されたのが39分のカラーアニメ『ある街角の物語』である。この作品は商業ルートにはのらなかったのですが、「芸術祭奨励賞」「ブルーリボン教育文化映画賞」を受賞し、一定の評価は得られたようです。

そして、その次回作に決まったのがテレビアニメ『鉄腕アトム』です。ところが、手塚さんが制作を決断した時点でスタッフはわずか20人ほど。週1回オンエアできる体制からはあまりにもかけ離れていました。
日本では不可能と思われていたテレビアニメ制作を手塚が決心したころ、米国ではすでに多くの作品が放映されていました。過去に公開された劇場短編映画の放映から始まり、映画館の人気者だった『ポパイ』『トムとジェリー』などが家庭での人気も集めていました。
テレビアニメーション『進め!ラビット』が登場したのは、1949年のこと。プロデューサーのジェイ・ウォードは動画とセル画の枚数を極端に減らし、背景にも同じ場面を何度も使うといった手法を取り入れて、動画など付加価値の低い作業を人件費の安いメキシコに外注した。
ウォードが開発した手法を完成させたのが、ジョゼフ・バーバラとビル・ハンナであった。MGMで『トムとジェリー』の制作者として有名だった2人はアニメーション部門が閉鎖されたので、ハンナ・バーバラ・プロダクションを設立してテレビアニメーションに取り組むようになりました。彼らがテレビアニメーションを制作するにあたってとった手法がリミテッドアニメーションです。フジテレビでは1961年からハンナ・バーバラ・プロダクションの『強妻天国』などを放映していたので、手塚さんはこの制作方法の存在を知っていたのではと思われます。

驚くべきことにハンナ・バーバラ・プロダクションは、1960年代初期にすでに30分サイズのテレビアニメーションを常時4~5タイトル制作できる体制にあったといわれています。MGMやワーナーの劇場アニメーション部門が閉鎖され、テレビアニメーションに人員が流れてきたという事情もあったようですが、手塚さんがアトムの製作を開始するころには米国のテレビアニメーションは絶頂期を迎えていたのです。
 
ただ、米国におけるリミテッドアニメーションの状況について手塚さんも漠然とは知ってはいただろうが、その具体的な手法や制作工程、予算までの知識はなかったと思われます。手塚さんにあったのは、情熱だけであった。
なかば伝説となっているが、手塚がスポンサーである明治製菓に対して提案した『鉄腕アトム』の制作費は1本55万円であった。ただし近年、アニメ研究家の津堅信之氏の著書『アニメ作家としての手塚治虫』で、虫プロダクションは『鉄腕アトム』の制作費として代理店の萬年社から1本につき100万円の補てんを受けていた事実が明らかになった。
 この辺の経緯については広く語られているので割愛するが、当時の55万円は現在では200万~300万円といったところで、現在は1本1000万円ほどで制作していることを考えるとかなり安いのです。しかも当初は制作費が1本につき250万円ほどかかっていたらしく、その差額は手塚さんのマンガ原稿料などで補てんしていました。

この手塚さんが決めた『鉄腕アトム』の制作費が、その後の放送局から支払われる制作費の基準となったため、いまだにその責任を問う声があるのも確かです。しかし同時に、低コストであるがゆえに量産化が可能となり、海外にも進出できたということも事実です。
製作費もさることながら、『鉄腕アトム』の最大の問題は毎週の放映時間までに納品できるかというところにありました。なにせ日本で初めての試みであり、誰も勝手が分からない。圧倒的な人手不足を補うため、制作現場では今までにないような工夫がされるようになりました。
その1つが、原画を描ける5人が1本を責任持って担当するというローテーションシステム。これは1本の監督、シナリオ、絵コンテ、原画という5~6人で1カ月以上はかかる作業を、1人が5週間で仕上げるというという常識外のやりかたです。
だが、各担当が不眠不休体制でひたすら作業に打ち込みますが、それでも間に合いません。納期に追われながら、工夫を重ねるうち、やがて自分たちなりの省略法(=リミテッドアニメ)の道筋が見えてきた。それは「簡単で、動画枚数のかからない、動かし方のパターン」というコンセプト・エンジニアリングを引き出したのです。『鉄腕アトム』を制作する中から生まれたこれらの日本独自の制作スタイルが次第に主流となり、その後の生産性を高める原動力となったのです。

コンセプト・エンジニアリングというのは、松下電器産業で技術顧問を務めた唐津一さんによると「まず目標を定め、それを成し遂げるための方策を新たに編み出す」という発想法。手塚が当時のスタッフに言った「『アトム』はアニメーションではなくアニメです」(杉井ギサブロー著『アニメと生命と放浪と』)という言葉のとおり、無意識のうちにこの手法をアニメ作りに適用していたのです。
具体的には毎週『鉄腕アトム』をオンエアさせるためにどのような制作手法を取ればいいのか逆算したのです。それに沿って制作現場、工程を組み立てたのです。ディズニーのフルアニメーションの呪縛が強かった日本は、手塚の決断によって否が応でもリミテッドアニメの道を歩まざるをえなくなったわけです。

同時期にテレビアニメ制作を考えていた人もいただろうが、そこにどれほどのリスクが潜んでいるのか皆目見当もつかない。従って採算のメドがまるで立たないのです。そういった状況では企業が参入できないのはあたりまえです。
手塚さんが、テレビアニメ『鉄腕アトム』制作を決断できたのは、マンガ家として日本一の人気を誇り、長者番付漫画部門の常連という資力の裏付けがあったからだと思います。恐らく手塚さんがいなければ日本のテレビアニメのスタートはかなり遅れていたはずです。後追いに比べて、最初に挑戦する者のリスクはとてつもなく大きく、失敗していればあれやこれやと間違いなくこきおろされていたはずです。

私は、手塚治虫さんのフロンティア精神は、もっともっと称賛されてしかるべきと考えます。「紙芝居アニメ」といわれた『鉄腕アトム』ですが、子どもたちの熱狂的な支持によって平均視聴率は27.4%、何と最高視聴率は40.3%に達する大ヒット番組となりました。当時、広島の焼け野原から少しづつ復興してゆく街中で、私の幼い頃の住まいは風呂がないアパート住まい。
お隣の銭湯にあるTVで『鉄腕アトム』を観ていたのです。まだまだTVというものが、一般家庭に普及する前の時代の中、一種の社会現象にまでなりました。玩具や食品は飛ぶように売れ、莫大な商品化権収入を得ることになるのです。
古くは1920年代に一世を風靡した米国生まれのキャラクター「フェリックス」に始まり、その後ディズニーによって確立された商品化権収入というビジネスモデルですが、日本では戦前に大ヒットした『のらくろ』が嚆矢となり『鉄腕アトム』によって完成しました。4年間で5億円という驚異的なロイヤルティ売上があったといわれています。
さらに、驚くべきことに、この日本流のリミテッドアニメが米国に売れたのです。買い手は米国三大ネットワークのNBC(実際のオンエアはシンジュケーション)で、価格は1本1万ドル。当時の為替相場は1ドル=360円なので、現在の価値にすると1本1500万円という驚くべき価格となります。
 
当然のことながら、『鉄腕アトム』の大ヒットにより、テレビアニメへの新規参入が相次ぐことになっていくのです。
TCJ(現・エイケン)が『鉄人28号』『エイトマン』、ピー・プロダクションが『0戦はやと』、東京ムービーが『ビッグX』、竜の子プロダクションが『宇宙エース』とテレビアニメの制作をはじめます。最大手の東映動画も『狼少年ケン』『少年忍者風のフジ丸』などで参入し、劇場アニメからテレビアニメへとシフト転換していきます。このような『鉄腕アトム』に続く新規参入者によって1960年代中盤以降、テレビアニメの制作数が増えていくことになったのです。
このように日本のアニメの商業的発展は、『鉄腕アトム』を契機としたテレビアニメとともにあったと言っても過言ではありません。もちろん劇場アニメにおける東映動画の業績も見逃せないのですが、現在製作されているアニメの95%(制作分数当たり)がテレビアニメであることから、その事実はご理解できると思います。

最後に特記すべきことがあるとすれば、1960年代ですでに現在のアニメ業界の枠組みのような流れができ上がっていたということです。東映動画(現・東映アニメーション)、東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)、TCJ(現・エイケン)、竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)などは現在もそのまま制作を続けているが、それらや虫プロダクションから派生した会社をあわせると、現在のアニメ制作主要各社の多くは、1960年代のテレビアニメ勃興期に生まれた会社にルーツを持っています。例えば、スタジオジブリは東映動画、ガンダムシリーズで知られるサンライズは虫プロダクション、攻殻機動隊シリーズのプロダクション・アイジーは竜の子プロダクション、『空の境界』のユーフォーテーブルは、東京ムービーにルーツをもっています。
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👆『空の境界(からのきょうかい)』(終章より)製作:ufotable

こうして考察してみると、日本のアニメの基礎というのは1960年代のテレビアニメ興隆期に大勢がつくられたということです。違った視点から見れば、日本のアニメ制作がいまだに“60年体制”を維持し続けているような気もします。

でも、アニメ・漫画は、楽しめたらそれが最高なのです。そしていつまでも心に残る作品に出逢えたなら、なおまた最高ですね。今回の考察記事は、『日本のテレビアニメ昭和徒然史シリーズ』の初回で紹介して始めるかけっこう悩んだんですけど、やはり日本のアニメ史の中で手塚治虫さんという偉大な先駆者の功績を考えますと、折しも『アニメージュとジブリ展』が開かれているこの時期でと考え紹介させていただきました。長文・乱文の考察記事で失礼いたしました。

次回は、『アニメージュとジブリ展』での鑑賞記念として、スタジオジブリの『魔女の宅急便』(1989年平成元年公開)を紹介したいと思います。アニメの徒然小道は、しばらくはスタジオジブリへ続く道となりそうです。

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コメント

みやbee

神社建ててほしい。
昭和を駆け抜けたマンガの神様は、本当に神がかり的な能力で漫画やアニメ界の頂点に君臨されましたね。

私は大学時代マンガ研究会におりました。
当時集めた手塚作品の一部は今も本棚の半分を占めています。
あまり読み返すことはありませんが、そこにあるだけで落ち着きます☺️

のぶさん

Re: 神社建ててほしい。
あら、マン研出身だったのですね!(^^)!

本棚に飾ってあるとは素晴らしい。私なんぞ、大きな床下収納庫を作って眠らせております。
なんとバチ当たりな私。

一緒に壮大な神社を建立しましょう!!(^.^)/~~~
非公開コメント

のぶちゃん

子供の頃からアニメ・映画は大好き。懐かし作品で心癒しましょ💛
紅のバイクを跨いでいますよ🏍

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