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特別展『ポンペイ』(国立九州博物館)鑑賞・・そして火砕流の記憶

🌋約2千年前、火山の噴火によって埋没した古代ローマの都市「ポンペイ」。先日妻と国立九州博物館で『ポンペイ展』へ行ってきました。ポンペイには当時の生活空間が封印されています。本展ではナポリ国立考古学博物館所蔵品をメインに、日本初公開を含む約120点の出土品を展示されているということで観賞してきました。
ponpei.jpg

(ポンペイとは)
ポンペイ(羅: Pompeii、伊: Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊、ヴェスヴィオ山のふもとにあった古代都市。西暦79年のヴェスヴィオの大噴火で発生した火砕流によって地中に埋もれる。その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されています

ポンペイ展1

国立九州博物館天満宮側からの入り口

 👉特別展『ポンペイ』(国立九州博物館ホームページ)


ポンペイ展23

ヴェスヴィオ火山噴火前の絵

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🌋ヴェスヴィオ火山噴火による灰に、2000年近く埋もれていたと思えないほどの絵画である。しかも、モザイク絵画が多い。なぜ、保存状態がよいのか?火山灰を触ったり、降灰を経験したことのある方ならば気が付くと思います。

(ポンペイ保存の謎?)

ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にある。西暦79年のある日、町の北西10kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したが、その美しさの秘密は実は火砕流堆積物にある。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになった

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湯沸かし器

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ファウヌス像

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囚人用の足かせ

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大金庫

(西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火について・ポンペイ展パンフ及びウィキペディアより引用)

このポンペイ展の絵画や工芸品や道具類をみていると一つの街を飲み込んでしまったヴェスヴィオ火山噴火というのは、どのくらいの規模の噴火であったのだろうか?ということが、誰でも想像します。

噴火したのは西暦79年であることは間違いないが、その正確な日付については一部に議論があります(以下の解説では、一般に用いられている日付で解説する)。

まず、西暦62年2月5日に発生したポンペイ地震により、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で西暦79年8月24日以降(噴火日については後述)の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。

翌8月25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られています。

当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩のように流れる現象である。プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。

噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに役人を派遣するが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。

(ポンペイの発掘について)

噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはなかったが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれた他、散発的に古代の品が発見されたので、下に都市が埋まっていることは知られていた。

1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)が、1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われた。これはドメニコ・フォンターナという建築家がサルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから150年が経過していた。この時点までヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンターナによって発掘されたが、将来考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンターナ自身が埋め戻したとされる。ただしこれには明確な証拠はない。 ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼ばれる。

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パン

脚注

^ “Visiting Pompeii”. Current Archaeology. p. 3. 2008年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月30日閲覧。

^ ベスビオ火山噴火、日付の新証拠 ポンペイ遺跡で発見 - AFPBB、2018年10月17日

参考文献:

  • 『優雅でみだらなポンペイ』本村凌二(講談社、2004年)
  • 『ポンペイ・グラフィティ』本村凌二(中公新書、中央公論社、1996年)
  • 『ローマの古代都市』ピエール・グリマル(北野徹訳、文庫クセジュ:白水社、1995年)
  • 『ポンペイ 古代ローマ都市の蘇生』浅香正(芸艸堂、1995年、ISBN 978-4753801695)
  • 『ポンペイ・奇跡の町 甦る古代ローマ文明』ロベール・エティエンヌ
  • 阪田由美子、片岡純子訳 〈「知の再発見」双書10〉創元社、1991年

爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。2002年にはサルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実が続々と報告されている。

「市民全員が噴火で死亡し、唯一の生き残りの死刑囚がポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかしそれは伝説として残り、発掘されることになった」という逸話が伝わるが事実ではないと思われる(とりわけ死刑囚に関する事項)。火砕流は歴史的にはまれな現象であり、目撃者は殆ど全員が死亡するので伝説としても残りにくく、一般人に理解されることは困難である。この逸話は1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山で起きた同様の火砕流噴火を下敷きにしていると思われる。この噴火では火砕流以外に麓のサンピエール市で泥流が発生し、警察の留置場に拘留されていた囚人を含めた3名のみを残して住民約2万8千人が一瞬にしてほぼ全滅した。

ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、止まった時計が再び動き出すかのごとく、雨風による腐朽が進行するようになった。2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊、翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」が倒壊している。


🌋私が今回、『ポンペイ展』を鑑賞して、忘れられないことを思い出した。このポンペイ展のブースの中にワイドディスプレイで『ポンペイ跡』やヴェスヴィオ山からみたポンペイの景観を観ていると島原半島を思い出しました。今から31年前の1991年当時、あの頃は島原市で仕事をしていました。地形上よくポンペイとよく似ています。ただ違うのは、ヴェスヴィオ山からポンペイの町までは小山一つもなかったことが、きっと被害を大きなものにし掻き落としてしまったと感じる。

対して雲仙普賢岳火砕流の時は、島原市と雲仙普賢岳の間に眉山があったからだ。そのため、島原市は火砕流の直撃を免れたのだ。しかし火砕流は上木場地区へと流れだしてしまった。最初の大火砕流発生時、私は島原市内の病院での営業活動であったが、緊急放送後にあっという間に島原市内上空も雷鳴を伴う真っ暗なガス雲に覆われていった。

降り続く火山灰、被災現場から病院へ救急搬送されてくる・・・

しかし、その救急車が灰で積もる路面の坂を登れない。男性何人かで全員、灰を吸い込まないよう顔をマスクとタオルで巻き付け、路面の灰をかき分けていった。自分にまとわりつく灰を何度も掻き落としながら、悲惨な遺体もみた。海から空から陸路から自衛隊も緊急で押し寄せてくる。

その日、宿泊していた旅館にも真夜中に火山弾が飛んでくる・・・

外では車の窓も割れる音もした。叫ぶ声がした。気が付けば、そのおばちゃんを病院へ運んだ(軽症で済んだが)

夜中に真っ赤な転がり落ちる火の玉を、いくつもみた・・・自分の鼓動が上がるのが、自分でもよく分かった。

自分の中の何かが変わったと思う。

それからというもの、何度も火砕流を、土石流をみた。還暦越えた今でもあの頃のことは忘れてはいない。

火砕流に関連した動画を紹介させていただきました。1本当たりの時間は短いです。

普賢岳忍び寄る危機①屏風岩噴火


普賢岳忍び寄る危機⑬ 5月20日溶岩ドーム出現


普賢岳忍び寄る危機⑱ 5月28日 火砕流の正体


普賢岳忍び寄る危機⑲ 6月2日大火砕流前日の上木場


雲仙普賢岳火砕流の発生状況(平成3年)


長崎ばーどアイ4K 雲仙普賢岳溶岩ドーム2019年撮影①

普賢岳は治まってなどいない。ただ、眠っているだけだ・・・

この世に、人間の生きている場所に安全な場所なんてありはしないのだ・・・

ポンペイも普賢岳もそのことを示している。

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